サルトル × 選択
「選ばない」も選択である
——サルトルと、日曜日の過ごし方
「今日こそ何かしなければ」と思いながら、
結局ソファで一日が終わってしまった日曜日。
その罪悪感は、いったいどこから来るのだろう。
サルトルは言う——「何もしない」と決めることも、れっきとした選択だと。
人間は「自由の刑」に処されている
ジャン=ポール・サルトルは20世紀フランスの哲学者で、 実存主義の代名詞的な存在だ。 彼の思想の核心は、一言で言えばこうなる—— 「人間はまず存在し、そのあとで自分を作っていく」。
神も、本質も、あらかじめ決まった「あなたらしさ」もない。 だからこそ、私たちはすべてを自分で選ばなければならない。
「人間は自由の刑に処されている」
「刑」という言葉は重い。でもサルトルはこれを悲観的に言っているわけではない。 選択の重さを正面から引き受けよ、という意味だ。 そしてその「選択」には、何もしないという選択も含まれる。
「何もしない日曜日」に罪悪感を感じる理由
休日に何もしないと、なぜか後ろめたい。 「もっと有意義に過ごすべきだった」「あれもできたはずなのに」—— そんな気持ちが夜になって押し寄せてくる。
サルトルの言葉を借りれば、これは「自己欺瞞(まやかし)」の一種だ。 社会や他人が「休日はこう過ごすべき」という基準を作り上げ、 私たちはいつの間にかそれを「本当の自分の基準」だと思い込んでいる。
でも考えてみてほしい。
「何もしない」と自分で決めたなら、それは怠惰ではない。
それは、今日の自分に「休む」という選択を与えた、立派な意志決定だ。
罪悪感の正体は、「他人の物差しで自分を測ること」にある。 サルトルはそれを拒否し、自分の選択に責任を持てと言う。
選択には、しない選択も含まれる
サルトルの実存主義で重要なのは、 「選ばないこと」自体が選択だという点だ。 今日どこにも出かけないこと、誰にも連絡しないこと、 ただぼんやりと窓の外を見ていること—— それらすべては、あなたが選んだことだ。
「重要なのは選択されたものではなく、
選択するという行為そのものだ」
選択に良い悪いはない。 あるのは、「自分がそれを選んだかどうか」だけだ。 だから「なんとなく過ごしてしまった」のではなく、 「今日はそういう日にすると決めた」と思い直すことができる。
罪悪感なく休む、ということ
これは「なんでもいいから開き直れ」という話ではない。 サルトルが言うのは、選択に対して誠実であれということだ。
「本当は外に出たかったけど、面倒で動けなかった」なら、 それは自己欺瞞だ。でも「今日は家でゆっくりすると決めた」なら、 それは誠実な選択だ。
疲れているときに休むことを選ぶのは、弱さではない。
自分の状態を正直に見て、「今日はこれが必要だ」と判断した、
実存的な決断だ。
日曜日の夕方、「今日も何もできなかった」ではなく、 「今日は休むと決めた、それを実行した」と言える人でいたい。
今日の過ごし方を、自分で選んだことにしよう。
ソファで映画でも、散歩でも、昼寝でもいい。
「選んだ」という感覚が、
同じ一日をまったく違うものにしてくれる。
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最後まで読んでくれてありがとうございます。
今日の過ごし方は、あなたが選んだものでいい。
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